JIS X 0213 について語っているあるページで、
現行の 97JIS の “鴎” “涜” “掴” “祷” “顛” などの文字を、初めてディスプレイで見た時に「この字はウソだ!」と叫んだ。
という、そのページの筆者の体験談が紹介されていた。
それぞれ‥‥
鴎 | U+9D0E 1-18-10 | → | 鷗 | U+9DD7 1-94-69 |
涜 | U+6D9C 1-38-34 | → | 瀆 | U+7006 1-87-29 |
掴 | U+63B4 1-36-47 | → | 摑 | U+6451 1-84-89 |
祷 | U+7977 1-37-88 | → | 禱 | U+79B1 1-89-35 |
顛 | U+985B 1-37-31 | → | 顚 | U+985A 1-94-3 |
‥‥であると言いたいんだと思う。
「ウソ」ねぇ、う〜ん、気持ちは判らなくもないけど‥‥。
JIS 漢字を批判するページなんかでも、「森鷗外の名が正しく表記出来ない」なんて例はよく引き合いに出されている。
これだけ広く流通していたら、「ウソ」とまで断罪しちゃうのはどうかと思うけどなぁ。
“鴎” は漢字発祥の地である中国でも使っているし。
それに、森鷗外自身が「森鴎外」と表記していたって話もあるらしい。
一歩譲って「森鷗外個人の名前を表記する時に “鴎” はウソ」だとしても、「カモメを “鴎” と書く」のはウソじゃないでしょ。
いいじゃん、筆記体って事で納得しようよ。
画数が多いと、手書き環境ならどうしても略記したくなろうってもんで。
英文字は「筆記体がウソ字でブロック体が本字」なんて事はなく「同じ字だ」って判っている訳だし、草書を更に崩して出来た平仮名や、漢字の部分を抜き出した片仮名を「ウソ」とは言わないでしょ。
だったら、まだ漢字の体裁を保っているんだしさ、漢字として認めてあげてもいいんじゃないかと思う。
簡単に書ける事で、日本の識字率向上に役立っているかもしれないんだし。
因みに、“鴎” でも “涜” でも、JIS 漢字批判の根拠にはならない。 JIS 漢字は字体や字種を限定する為の規格じゃないから。
新字や略字も大いにアリだけど、私個人としては、本来の形で表記したいとは思う。
理由は、略すと意味が消えちゃう事があるから。
例えば、“賣” や “價” なら「“貝” が入っているから貨幣に関する字」っていうのが判るけど、新字で “売” や “価” だとそれが消えているのが不満。
でも、いかに本来の字形が好きとは言え、ラブレターに「戀しい」なんて書くつもりはないし、プログラムのコメントに「亂數發生函數」とも書かない。
文字は、相手に意志を伝える為にあるんだから、まずその目的を達成する方が先決。
旧字だと通じにくいのは事実だもん。
自己表現なり、日記なり、意志の伝達が主じゃない場であれば、どうに書こうが自由だと思う。
でも意志の伝達は、伝達性に重きを置く。
私はそんなスタンスかな。
ある人が「新字/略字はケの文字、旧字はハレの文字」っていう表現をしていたけど、この言い回しはウマいと思う。
そう言えば、父が勤めていた会社では、稟議書は旧字で書く決まりだったそうだ。
新字や略字が「ウソ字」だっていう話を見聞きすると、思い出す事がある。
私の苗字は、トップページでは「緇隰」って表記しているけど、戸籍上は普通に「黒沢」。
そりゃそうだ。
で、以前勤めていた会社に「黒澤」さんがいて、ある時にハンコ(会社支給のシャチハタ)を貸した事がある。
その時に黒澤さんに「え〜、“澤” じゃないのぉ?」と新字である事をからかわれた。
冗談混じりで悪意がない事は判っていたんだけど、後で「そうか、こうに切り返せばよかったんだ」というある事に気付いた。
“澤” にこだわる人はいるけど、“黑” にこだわる人はあまりいないよなって。
“黒” が新字のままなのに、“澤” の旧字にこだわるのは、なんかバランス悪いってゆーか。
旧字や正字にこだわる人の中には、こういうアンバランスな人もそれなりにいるんじゃないのかな、なんて思う。
で。
ちょっと話が難しくなってくるのが、包摂規準とかでは括れない様な字。
「“國” → “国” がアリなら “摑” → “掴” もアリでしょ」っていう様な類推が出来ない様な、「そんなパーツあったっけ?」とか、「あ、そこをそうに省略するの?」の様な。
私の友人に旧姓「はしもと」という男がいるんだけど、その “はし” は右図の様な字。
“橋” の旁の “喬” が、“高” が “髙” に変化したのと同じ様に変化したんだろうな。
さて、この字は “橋” と交換可能だろうか?
固有名詞でなければ、英語の “bridge” を意味する文字として使われる場合であれば、“橋” に置き換えてしまう事に疑問を持つ人はいないと思う。
でも固有名詞の場合、“橋” は “bridge” を意味しない。
例えば、「美子」さんが美人であるとは限らないし、「好子」さんは嫌われ者かもしれない。
それと同じ様に、命名時には意味があったかもしれないけど、今現在の「橋本」さんの “橋” はもう “bridge” ではない。
でも。
文字は公共の物なんだから、公共性のある文字に置き換えるのは妥当なんじゃないか、という気はする。
そもそも、姓に使われる特殊な文字は、どれ位の歴史があるんだろう?
歴史の浅い物は、せいぜい遡っても明治あたりじゃないのかな。
姓を名乗る方も役所で処理をする方も文字を書き慣れてなくて、そんな人達が手書きをしている内に発生しちゃった誤字が多いんじゃないかという推察は、そんなに外れてないと思う。
先祖の誤りを子孫が正す、という行為を躊躇する事はないんじゃないかな。
高々 100 年位の歴史で「ウチは昔からこうに書くから」っていうのは、主張としては弱いと思う訳だ。
さてそれじゃ、もし 100 年前の「字の創作」がアリだとしたら、現代でそれをするとどうなるだろう。
例えば “粂” と “麿” の類推から、右図の様な「クロ」という字+ “沢” で「くろさわ」と名乗って、(とりあえず公文書以外の所で)積極的に使って “証拠” を溜めていく。
で、何世代かに渡ってそれを続けたら、役所に行って「ウチは昔からこうに書くんです!」と主張しちゃう訳だ、その “証拠” を提出して。
キチンと演技しろよ、まだ見ぬ私の子孫よ :-)
許されない事だろうか。
100 年前に漢字の素人が勝手に文字を創作しちゃった行為との違いは、故意か否かの差しかない。
遊びとしては面白そうだけど、デメリットもいろいろある。
一般的な文字じゃないから人に説明する時に手間が掛かるし、役所では電子化が出来ないから受けられるサービスに制限があるし(出張所で住民票の即日公布が受けられないとか)、役所で何かある度に「書き換えますか?」なんて訊かれるし、未来の漢和辞典の編集者を困らせる事になるだろうし、文学作品に使った場合は著作権が切れた時に『青空文庫』さんが困るだろうし、“久呂沢” なんて書かれたら怒ってみせなきゃいけない :-)
で、前述した様に「100 年前の間違いと現代のイタズラ」の差は小さい。
特殊な字を頑に守る人には、これらのデメリットを甘受するに足るメリットがあるんだろうか?