が知る MorphyOne の真実

MorphyOne の騒動に関して、私が知り得る情報を記しておきたいと思います。

日付が正確なのは、当時日記を付けていたからです。

い訳をするつもりはありません。
ただ、私がしていない事で糾弾されるのは困るので、私の体験や感想を記しておきたいだけです。

のモルフィーカレンダー ()

り印オフで秋葉原へ行きました。
新宿オフに出席しました。
, ,
っ越しの手伝いで、湯島へ行きました。

これ以降は、開発に加わり湯島にいた日付です。

に新宿でオフがありました。
にチムニーへ行きました。
に MOEV01 で DOS がブートしました。
にベトナム料理店へ行きました。
にコミケ出展用に貸し出しをしました。
に広末町の焼肉屋で、コミケの打ち上(?)をしました。

る事は可能だったか? ()

りでハード、ソフト、外装等々‥‥が出来ないのは、私も承知しています。 オープンにしてそれぞれの分野を得意な人(業者も含んで)が分担する事で、市販品のクオリティはなくても、中身はちゃんとしたコンピュータが出来上がると信じていました。 当時、少なくとも基板と DOS 起動までは、佐川氏の弁と能力を信じて出来ると思っていました。

発起人(自称)ハードウェアエンジニアでなければ、私は乗らなかったと思います。 ソフトウェアは後からどうにでも出来ますが、まずはそれが動くハードウェアがなければ始まらない訳ですから。

でも、ちゃんとした設計と明朗会計であれば作れたんだろうとは思いますし、「プロテクトモードのある(DOSとしての)200LX」は欲しいと思っています。 もう手遅れですが。
ただ、「また作れる機会があったとしたら欲しいか?」と問われると、もう素直に「欲しい」とは言えない様な気がします。

いわゆる『女玩』の写真 ()

問題の写真のページに貼った写真、だけがきっかけとは思いたくはないんですが、まあその写真を元に「ニョガン」なる言葉が発生してしまった様です。

がかつて在籍していた会社では、ゲーム会社という事もあるのかもしれませんが、モニタの上にフィギュアが並んでいるのは別に珍しい事でもありませんでした。 なので、あの写真を載せたのは、「恥ずかしい趣味を暴露してやろう」という意図ではなく、ただ単に「微笑ましい光景」として載せただけです。
まあ、そう思っている私もズレているのかもしれないですけど。

シス真似 ()

1999/12 頃から触り始めた Ruby で「200LX のシスマネの様な物が作れるのではないか」と挑戦していた物です。 Ruby を選んだのは、拡張性が高く、DOS でも Linux でも同じ環境を容易に構築出来ると思ったからです。

タイミング悪く、当時使っていたノート機は本体ごと故障(後に復旧しましたが、データは飛んでしまいました)、デスクトップ機のディスクもクラッシュしてしまい(こちらも本体が調子くて、ひやひやしています)、Web に載せた以上の物を私も持っていません。
相次ぐクラッシュで製作意欲を失ってしまいました。
2ch で「くろさわが(BIOS の入った)ディスクをクラッシュさせて逃げた」という書き込みがあったのは、この辺の情報がごっちゃになって出てきたんだと思います。 シス真似の作業は私の PC で作業していましたし、モルフィー企画とは関係なく計画した物です。

スクリーンショットや製作過程を公開したりと、あたかも MorphyOne で 200LX 相当の PIM が動くかの様(それを目指していたにせよ)錯覚を与えてしまったのは、MorphyOne への期待を煽ってしまったという点で相当に罪深かったと反省しています。

BIOS の担当 ()

当初、BIOS は佐川氏と分担で、私は CF からのブートとキー周りを担当していました。 OHPA-ML やモルフィー企画のスタッフ日記に、私が何をしていたかは流れています。
みに、BIOS の都合や個人的な趣味で「ABC 配列の回路を提案した」などという事はありません。
それと、報酬(現金でもそれ以外でも)は頂いていません。

MorphyOne ロゴタイプ 作業の合間に、「MorphyOne のロゴが BIOS 起動時に表示されたら格好イイかも」と思い、OHPA のページにあるロゴをグラフィックス表示させようと思い立ちました(2000/06 に、ohpa:3361 で発言しています)
ところが、CGA グラフィックスモードに切り替わらず、BIOS のソースで該当エントリを覗いてみると未サポートで、この時は初めて Datalight BIOS に CGA グラフィックスモードがない事を知りました。
このままでは DOS が動いても日本語表示が出来ないと思い、それを佐川氏に話すと、「それは私がやる」と自信たっぷりに語った‥‥と記憶しています。
これがその当時ったデータです。 200LX のトップカードにしていたので、手元に残っていました。
mlogo_m.pcx(2,464 bytes)
mlogo_l.pcx(2,931 bytes)

その後、コミケに出展する為のデモプログラムを任され、「佐川氏の助けになれば」と思い、CGA グラフィックスモードに挑戦してみましたが、デモプログラム作成に許された期間が短かった為、結局は断念しました(コミケのデモはテキストと ANSI エスケープシーケンスだけで作りました)

デモプログラムのテスト機だった PalmTopPC-110(MorphyOne と同じ 486-33MHz です)の CF から、デモプログラムを発見しました。
公開に耐える代物ではないかもしれませんが、証拠として修正せずにそのまま公開します。
タイミング取りに V-sync や 8254 を使っていない理由は覚えていません。 その為、今時の PC だと速過ぎて何が起こっているのか判りづらいです。

demo-g.zip(13,031 bytes)
最初に挑戦したグラフィックス版です。
『シス真似』から関数を切り貼りしているので、余計な部分もあります。 CGA_open() の中に、BIOS に頼らず CGA グラフィックスモードにしようとした “あがき” のカスが残っています。 BIOS コールだけでは CGA グラフィックスモードになりませんでしたので。
demo-t.zip(6,938 bytes)
コミケでデモされたテキスト版です。
ると “world'd”(→world's)、“66MHZ”(→66MHz)という typo がありますが、これを修正せずにコミケに出してしまったのかどうかは覚えていません。

その後、2003/03 に shusshi/yoyaku-ML で流れた‥‥

>  CGAのサポートのためにBIOSでどのような動作をさせるべきかが大きな問題なの
> ですが、実際にどのようなBIOSコールが行われているかをご存知の方がいらっしゃ
> いましたら、ぜひご教授をお願い致します。
>  CGA部分のコードはCF部分に比べて格段に短く、最大で25行程度となっていま
> す。短くて処理が明確だからといって簡単に直せると言えるわけでは有りません
> が、CF部分に比べると液晶表示にかかわる期間は短くなっています(作業年表な
> ど)。

‥‥を読んで、呆れてしまいました。 なにかとてもシロート臭い文言が並んでいる様にしか見えません。
か、デバイスドライバが書けるファームウェア屋さんだと豪語していたと記憶しています(だから安心して作業を任せられると信じていた訳です)が、佐川氏は切り貼りレベルでしか x86 のアセンブラを触れないのではないかと今は疑っています。
のファームウェア屋さんの参加がなかったらどうするつもりだったんでしょうか。
そもそも私の参加は、作業負荷分散の為に佐川氏から作業を引き継ぐという形でした。 元々佐川氏だけでやるつもりだったんでしょうから、当初から予定していた体制に戻っただけの筈です。

が残してきた部分は、エンジニアの謙遜として「中途半端なバージョン」ですが、少なくとも CF から DOS がブートするレベルにまではしてあった筈です。 何故かなくなって(それとも「動かなく “して”」)しまったんでしょう?

音信不通 ()

に体調を崩して実家へ戻りました。 また体調が戻れば作業に復帰するつもりでしたが、そのまま悪化の一方で、未だに(2003/03 現在)外出もままならない生活が続いています。
作業の成果物は当然ながら全て残してきましたし、これも当然ながら何かを持ち逃(?)したりという事もありません。 また、出資者ですから住所も知らせてありますし、メイルも通りますし、携帯電話の番号と iMode のアドレス(本当にごく親しい人にしか教えていません)も知らせてあります。
なので、作業上での不都合があれば何か問い合わせが来ると思っていて、でもそれがなかったので「BIOS の作業は進んでいる」と勘違いをしていた次第です。 そもそも、仮に私が本当に音信不通だったとしても、OHPA-ML で募集をする事は可能だった筈です。 私もそうやって参加したんですから。

OHPA-ML で「BIOS 担当者が逃げた」という話になった時は、言葉が悪いとは思いつつも、途中で作業を離れたのは事実だったので、罪悪感を持っていました。

ところが。
佐川氏が「MO19 で DOS はブートしたし、技術的な不安は感じていない」と語った ASCII のインタビューで、他に技術的な協力者がいるかの様に語っている事に疑問を持ったとある方が、 「それはくろさわの事か?  2000 年の夏に抜けているが MO19 は 2001 年の始めでは?」 という旨の質問メイルを佐川氏に送った所、 「くろさわは一度は療養の為に帰ったが、春頃からまた復帰して手伝った。 MO19 で DOS がブートした祝いで、ベトナム料理を食べに行った」 という旨の返事を貰ったというんです。 その方から「これこれこうだが、本当か?」という確認メイルを貰って、とても驚きました。
部分的には事実を含んでいて、確かに MOEV01 で DOS はブートしていますし、 には本郷のベトナム料理店へも行っています。 しかし私は MO19 には触っていませんし、ベトナム料理も特にブートのお祝いとして行った記憶はありません(MOEV01 で DOS がブートした からは日付が離れています)
MOEV01 当時の事について、「ベトナム料理はお祝いとして食べたのか?」という問いならば、記憶いで済まされるかもしれません。 しかし、「MO19 の協力者は誰か?」という問いに対する答えとしては、記憶いでは済みそうにない意図を感じます。 「音信不通という事にしてあるので、都合よく利用した」と思われても仕方ありません。 と言うか、私はそう思っています。
をついてまで「MO19 で DOS がブートした」と言わなければならなかった理由は何でしょうか?

その方の質問と佐川氏の回答のメイルは、ヘッダ込みで送って頂きました。
その方と協議の結果、「すぐこれを出すと、佐川氏から情報を引き出すのが難しくなる」という事で、時期を見て発表する事になりました。 公開用の文章(この章の雛形の様な物)を書いて、いざという時に備えてはいましたが、私自身も風呂場で倒れるというアクシデントがあって、あまり精力的には動けませんでした。

MO19 ブート偽装疑惑 ()

2002/07 にメイルで知人から教えて頂いてその文章を読んだ時、私はその疑惑の方の信憑性を疑っていました。 理由は‥‥

‥‥といった所です。

でも、2003/03 になってから、 に流れた ohpa:4574‥‥

> ・BIOSソースのCF部分に大量にテストメッセージが入っている

‥‥を読み返してハッと気付きました。
このメッセージは、文字列簡易表示ルーチンと共に私が仕込んだ物がそのまま残っているんだと思います。 これを使えば、他の PC でブートさせた DOS の起動画面を見て、そっくりそのまま表示された文字列を真似して、HALT させてしまえばいい訳です。 この方法なら、DOS が起動しなくても、BIOS さえ動き出せればいい事になります。 「LCD コントローラを直接いて」という言葉が引っ掛かっていて、この方法に気付けませんでした。

ただ、前述の件もこれも、結局は状況証拠でしかなく、MO19 で DOS がブートしていなかったと結論するには根拠が弱いと思います。

2ch 観 ()

モルフィー企画整理アンケートをきっかけに、ようやく「2ch ではどんな事が語られていたのか?」という事で、ログを読み始めました。 大量にあるので、未だに(2003/03 現在)みきっていませんが。
かに玉石混淆な側面はありますが、OHPA-ML では語られる事がなかった有益な情報がある事に、遅きに失した感はありますが気付かされました。

が、私もだいぶ叩かれていますが、アドレスを公開しているにも関わらず直接メイルで取材をされた事はありません。 まさに 2ch 的に言う「ヲチ(= watch)」だけで、「それで、本当の所はどうなの?」という部分を飛ばして、観測者の主観だけがログとして残っている感じがします。 まるで「楽しめれば証拠はいらない、それらしくあれば」という感じです。
「だってそういう所だから」と言われてしまえばそれまでですが、読む方にはその事を意識して欲しいと思います。


68 スレ目まで読み進めました( 現在)
67 スレの最後の方と 68 スレの先頭の方に‥‥

別板
http://pc.2ch.net/test/read.cgi/mac/1019020530/762
のネタ
http://japan.cnet.com/News/2001/Item/011122-1.html
より:
ボランティアがオープンソース・プロジェクトに参加したいと思う主な動機の
1つに、ソフトウェアの世界に永久に足跡を残せることが挙げられるが、その
限界が見えてきた。「うまくいかない時は大げさに騒ぎ立てるくせに、それを
直すのを手伝ってほしいというと黙り込んでしまう。そんな連中に愛想が尽き
た」とは、く○さわが残した辞任の弁だ。く○さわは、MorphyOne向けのBIOS
開発を務めていた。「かつては、自分の知識や経験や時間をコミュニティー
と共有するのは良いことだと思っていたが、その実態がわかった」

‥‥という書き込みを見付けて、絶句してしまいました。 私は「辞任の弁」なんて残した覚えはありませんし、こんな理由で開発から抜けた訳でもありません。
どちらのリンク先も今はもうない様なので、本当にこういう記事が存在していたのかすぐには確かめられません。 が、2ch のログとして残り、後から読む人には、さも「くろさわは功名心からモルフィー企画に近付いたが、それが無理そうなので逃げた」という印象を与えかねません。
が言った事ならば責任を負いますが、本人の知らない所でこういう嘘が流通してしまうのは、とても耐えられません。

‥‥と思っていたら、どうやらネタの様です。 数名の方からメイルで、ネタの元になった記事の種明かしや、「気にしない方がいい」等のアドバイスを頂きました。
んだ当初は、「まさかこんな記事が!?」と血の気が引く思いでした。 あたかも近日の主要項目かの如く、スレ冒頭に再掲されていましたし。

に「嘘は嘘であると見抜ける人でないと‥‥」にハマってしまった様です。
いろいろと思う所はあるものの、今は 2ch やそのネタを書いた人を責めるつもりはありません。


155 スレ目まで読み進めました( 現在)
たまに出て来る「み、みんな、だまされないで〜!! くろさわさんはいい人なのよ〜!!」(AA、Opera7 だと正しく表示されないので)には、当事者として不謹慎かもしれませんが、笑ってしまいました。 元ネタを知らないので、そういう登場人物がいる漫画か何かなのか、知り合いが擁護してくれたのか、ただ単にオモチャにして遊んだだけなのか、本当の所は判りませんが。
まで( 現在)、私は 2ch に書き込みをした事はありません。 念の為

証言者は何処へ? ()

の観察では、湯島では開発作業や事務作業がそれなりに行われていて、その為の要員が毎日ではないにせよ出入りしていました。
その他にも、湯島には来ないで作業をされていた方や、作業要員ではないけど訪れる方(佐川氏の知り合いと思しき人物)もいました。

が離れて以降、何があったのか、何故この様な事になってしまったのか、私の持つ断片的な情報では判りません。
に、「私がいた頃は正常だった」と自負している訳ではありません。 むしろ、出資者の一人として、開発に関わった者として、開発状況を関知していなければならなかったのに、それが滞っている事を感知出来なかった非は、反省しています。

が知っている状況と今の状況とでは、あまりにも落差があるので、急に今の様になったのではないと思います。 もし 2000/08 以降の湯島の状況を知っている人がいれば、例え断片的でも何があったのかを教えて欲しいと願っています。 他の関係者、出資者、予約者の方々も、何があったのかを知りたいであろうと思います。

個人的に、2ch の MorphyOne スレ、17 スレの 607 で DOS ブート疑惑を語った人と話をしてみたいです。 ネタではなければ、ですけど。